
図鑑を調べれば、この花の名前がわかるかも知れない。最近よく見かける花だ。
「よく見かける」という変化には少々驚く。こんな寒い季節に咲く花が割と多くあることさえ今まで気づかず生きてきた。そう思えば、こんな道端の花でも充分ありがたいもので、きっと明日の朝も忘れず見るのだろう。

携帯で写真を撮り始めてまだ二ヶ月ほどだけど、自分のはジグソーのピースのようだと思えてきた。作品としてどうのこうのというアレでもないので、たぶん記念写真の延長なのだろう。こういう欠片が集るとどうなるのか(何か見えるのか、何か出来上がるのか、何もないのか)少し楽しみではある。

日比谷から銀座方面を見る。皇居も近い。ここから先は渋滞。銀座のメインストリートということもあるけど、タクシーが多すぎるのも原因。強引な割り込みに腹の立つことも多い反面、みんな暮らすのに必死なのだなと我が身に置き換えたりもする。

二、三日前から気になって近所の寒椿を撮る。
けれども花を撮ることになるなんて思わなかった。わからないものだ。
花に季節を感じてるわけでもないのに、癒やしを求めてるわけでもないのに。なんでかな、とつらつら考えてみると、たぶん花の持つ強い毒性に魅かれるのだと思う。ただのイメージにすぎないけど、花びらには毒粉が塗ってあり、そこから発せられる波長が合うと、虫のような気分になって捕らえられる。といった感じ。もしかしたら、そういうのをエロスというのだろうか。

新聞は文章を読むものばかりと思っていたので、撮影者の名前が片隅に記されてるのを見落としていた。報道のものはアート的なものとは違うのだろうけど、構図の中に伝えるべきことがスッキリ分かりやすくまとめてあって、やはりプロはちがうなあと思った。
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絵を描く人に写真はピンポイントのほうが面白いと言われる。そういえば携帯カメラはワンワードだなと感じる。でもそれにしたって、恥ずかしくてたまらない。まるで補助輪つきの子供自転車のようで。
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漁れたものより、撮る行為そのもののほうがまだ楽しくて、子供の玩具と同じだななんて思う。そういうわけでやはり携帯カメラあたりが丁度良い。
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写真ではこう写ってるけど、ほんとうはこう見えたんです。といって加工するのは反則なのだろうか。最近、シャッターはゆっくり静かに押すということを自己学習した。その程度である。余白が多いのはうれしい。

些細なことで誰かを傷つける。そんなことはいつでもあり得るけど、そういう時はついつい自分のほうへ比重が移っており、後になってあぁと気づかされる。悪気はないのだけれど、たまたまタイミングが合ってしまったことで必要以上にしくじった気分になる。

写真を撮りはじめたのは、ある人のブログを読んだからだった。その方は精神的に不安定な時期があって、医者に草花の写真を撮るように勧められたそうだ。
そのブログには自然に生えてる季節の植物を加工しないで(と思われる)そのまま掲載している。そこに添えられる文章はウケを狙うところがなく、気負うところもなく、さらりとしていてとても好感が持てた(コメントもトラックバックも閉じられてるので、ここと同じ完全「ひとりブログ」である)。
僕の医者はそんなこと勧めてはくれなかった。とにかくその人の真似をして写真をはじめた。やってみると写真は撮る人の感性がけっこうダイレクトに出るものだなと思った。興味の対象というか、被写体の捉え方がそれぞれに違っていておもしろいし、撮影者の人柄に触れるような感覚もある。
気になるものを見つけては、画像にした時に思い通りに撮れてるとうれしい。花や空の写真を撮るイメージは僕にはないような気がするけど、街を撮ることが多いので、自分は日常の切り取りが好きなんだなという新たな発見もあった。
(街中の人物を撮りたいのだが、携帯だとそうとう近づかないと、どうしても被写体が遠くなってしまう。その度にちゃんとしたカメラが欲しいといつも思う。でも携帯には携帯の何か妙にチープな味もあり、これはこれで良いかなとも)
ただ興味本位に撮ってるだけだけど、写真の良いところはたとえどんな写真でもともかく「写真」と呼んでもらえるところ。大人になればなっていくほど「好き」になるものは貴重なもののような気がする。辛いものにならないよう、うまく「好き」を持続してゆきたい。





































